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カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第3主日



右のイコンは、通常「ウラジーミルの聖母」と呼ばれるイコンです。神秘的な美しさを持ったこのイコンは、伝承によれば聖ルカによって描かれました。1131年にコンスタンティノープル総主教からキーウ大公ユーリー・ドルゴルーキーに贈られ、キーウに安置されました。1155年にユーリーの息子アンドレイによってウラジーミル(現ロシア領内)に移され、さらに1395年にモスクワに移されて、今はモスクワのトレチャコフ美術館所蔵となっています。
わたしは「ウクライナとロシアの聖母」と呼びたいように感じています。

●復活節第3主日
 聖書箇所:使徒言行録5・27b-32, 40b-41/黙示録5・11-14/ヨハネ21・1-19
            2022.5.1カトリック原町教会にて
 ミサのはじめに
 復活節第3主日。キリストの復活の光がこの世界を照らしますように。戦争と暴力の闇が打ち払われますように。悲しみと絶望の闇、憎しみと死の闇が打ち払われますように。すべての人のために、すべての人の救いといのちと喜びと平和のために、今日もこのミサをささげます。

 ホミリア
 3月16日の地震はこの近くでは特に南相馬市鹿島区、相馬市、新地町で大きな被害をもたらしました。地震で被害を受けた屋根の応急修理には専門的な技能が必要なので、そのためのボランティアが全国から集まっています。その中のFさんと仲間たちのチームがずっとカリタス南相馬に宿泊しています。まるでコロナ前のような活気が戻っています。ボランティアの来る方々は、ほぼ全員がキリスト信者でない方々です。
 その中の誰かが「キリストは死んで復活したんですね」と言うと、他の人が「それは歴史的事実ですか」とわたしに聞いてきました。そこでわたしはこんなふうに答えました。「イエスという人が2000年前に生きていて、十字架で死んだのは歴史的事実です。でも復活というのは、そのイエスが死に打ち勝って永遠のいのちを生きる方となった、ということで、だから歴史の中で起こったことというよりも、歴史=時間の流れを超えた出来事であるとわたしたちは信じています。その意味で信じるしかない出来事なのです」

 復活というのは信じるしかない出来事です。しかし、歴史の中で起こったこともあります。それは復活したイエスに出会った弟子たちが変えられたということです。福音書にはそのことが記録されています。弟子たちはどのように変えられたのでしょうか。
 先週の福音は週の初めの日の夕方、弟子たちが集まっているところにイエスが現れたという話でした。イエスと出会った弟子たちの中に起こったこと、それはまず「喜び」でした。「弟子たちは主を見て喜んだ。」この喜びは最後の晩さんの席で約束されていたものでした。ヨハネ16章22節にこうありました。「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」ただの再会の喜びではありません。復活したイエスはいつも共にいてくださる。だからどんな時にも喜びを失うことはないのだ。今日の第一朗読(使徒言行録5・41)に、「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜(んだ)」という言葉があります。ユダヤの最高法院で尋問され、鞭打たれ、常識的には喜ばしいはずはないのですが、イエスに結ばれているという喜びはどんなときも奪われることがないのです。

 そして先週の福音の箇所では、イエスが弟子たちに向かって3回「あなたがたに平和」とおっしゃいました。この平和も最後の晩さんの席で約束されていました。ヨハネ14・27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」これは周囲に何の危険もないという平和ではありません。イエスが神によって満たされていたように、わたしたちも神の恵みによって満たされるところから生まれる平和です。イエスが共にいるから何も恐れることがないという平和なのです。弟子たちの心の深いところにその「平穏、平安」が与えられるのです。弟子たちは復活したイエスから確かに「心の平和」を与えられました。

 そして先週の福音で、喜びと心の平和と共に、弟子たちに与えられたのは「ゆるし」の使命でした。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」あなた方がゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現する、というのですね。これは最後の晩さんの席でのあの「互いに愛し合いなさい」という使命とつながっています。福音書ではありませんが、ヨハネの第一の手紙にこういう言葉があります。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(一ヨハネ4・12) つまり、わたしたちが互いに愛し合うならば、神の愛がそこに実現するというのです。復活したイエスとの出会いによって、弟子たちはこの愛とゆるしを生きるものに変えられたのです。

 弟子たちの生き方を特徴づけるもの、それは「愛と平和と喜び」でした。そしてイエスの弟子たちの「愛と平和と喜び」が周囲の人々に伝わっていき、イエスを信じる人は次第に増えていきました。それが復活節のミサの第一朗読で読まれる使徒言行録に伝えられる初代教会の姿です。
 イエスの弟子であるわたしたちの中に、愛と平和と喜びが実現しているならば、復活したイエスは今も生きていて、わたしたちと共にいることになる!
 逆にもしわたしたちの中に、愛がなく、平和がなく、喜びがなかったとしたら、どうしてイエスは復活したという信仰が伝わるでしょうか。
 今の世界は神を見失い、非常に暗く厳しい現実の中にあります。その中で、わたしたちキリスト者は「愛と平和と喜び」を生きる使命をいただいているのです。そのことをこの今だからこそ、しっかりと思い起こして、深く自覚したいと思います。
 
 5月になりました。5月はマリアの月と言われています。わたしたちはマリアの中に、本当の意味で「愛と平和と喜び」が実現していると感じています。天使のお告げの場面から始まるイエスの母としての歩みの中で、特にイエスの受難・復活、昇天と聖霊降臨という流れの中でマリアの「喜び、平和、愛」が輝いています。
 わたしたちがマリアと共に「愛と平和と喜び」を生きることができますように。
 マリアの月にあたって、今年3月25日、フランシスコ教皇がささげられた「ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り」の一部を一緒に唱えたいと思います。今年は特に戦争という差し迫った状況の中でマリアと共に平和のために祈りたいと思いました。この中に、「天の大地であるマリアよ、神の調和を世界にもたらしてください。」という言葉があります。「天の大地」というのは耳慣れない言葉ですが、東方教会の修道院の賛歌から採られた言葉だそうです。天に上げられ、神のもとでの「愛と平和と喜び」に満たされているマリアが、わたしたちの世界に「愛と平和と喜び」をもたらしてくださいますように。何よりも、わたしたちキリスト者がまず「愛と平和と喜び」に生きるものとなりますように、心から祈りましょう。アーメン。


復活節第2主日



●復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
 聖書箇所:使徒言行録5・12-16/黙示録1・9-11a, 12-13, 17-19/ヨハネ20・19-31
            2022.4.24カトリック原町教会にて
 ミサのはじめに
 古代からのキリスト教の流れには、大きく言って、東方教会と西方教会の二つがあります。西方教会(ローマ典礼のカトリック)では、今日は復活節第二主日ですが、東方教会(正教会や東方典礼のカトリック教会)では、今日が復活祭です。今日の福音では復活されたイエスの言葉「あなたがたに平和があるように」という言葉が3回繰り返されています。キリストの平和とは、キリストがともにいてくださる、だから何も恐れることがない。キリストがすべての人とともにおられるなら、もう武器や争いがなく、すべての人が愛に満たされる、そういう平和です。現実は程遠いですが、でも、復活を祝う今日、その本当の意味の平和がウクライナと全世界に実現しますように、心から祈りましょう。

 ホミリア
 ロシア語で日曜日のことを「ボスクレセーニャ」と言うそうです。これは元々「復活」という意味の言葉です。日曜日のたびに「復活の日」と言うのは素敵ですね。ちなみウクライナ語も調べてみましたが、「ネヂィーリャ」と言って、意味はただの「休みの日」らしいです。ウクライナはキリスト者の多い国ですが、ロシアも元々信心深い国だったのですね。神の御心に背くこの侵略戦争・大量殺戮をロシア人全員が支持しているわけではありません。ロシアの中に、ロシア人の中にも素晴らしいものがあることを忘れないようにしたいと思いますし、東方教会の復活祭である今日、ロシア人の信仰心・良心に訴えて、すべての命の尊重と平和が実現するように祈りたいと思います。

 今日の福音は週の初めの日の出来事と八日目の出来事です。弟子たちの集まりの中にイエスが来られます。週の初めの日=日曜日は、まさに復活の日です。イエス・キリストは生きておられる、そのことをわたしたちは毎週日曜日に記念し、祝い、確認します。二千年前に起こったことではなく、今もキリストが生きておられることを祝うのです。
 二千年前に生きたイエスは神がいつくしみ深い父であり、すべての人を例外なく大切にしてくださる方であると教えました。イエスは、その神の愛を伝えるために、ご自分もすべての人に対して惜しみない愛を示し、最後にはすべての人のために命をささげてくださいました。そのイエス・キリストは今も生きている、私たちはこの復活祭に、そして毎週の日曜日にそのことを祝うのです。

 今日の箇所でイエスは弟子たちが集まっているところに来られます。恐怖に怯え、扉を閉め、内側から鍵をかけている弟子たちの集いの真ん中にイエスは来られます。そして「あなたがたに平和」と言い、弟子たちを信じる者にしてくださいます。最初の日、トマスは一緒にいませんでした。しかし、1週間後の日曜日、弟子たちの集まりの中にトマスもいました。イエスはそこに現れてくださり、トマスを信じる者に変えてくださいます。
 わたしたちも同じ経験をしています。毎日曜日、復活の日に、イエスの約束、「わたしの名によって、二人三人が集まる中に、わたしもいる」と言う約束を信じてミサに来ます。この日曜日の集まりは本当に大切で、ここにこうして集まっているわたしたちの中にイエスは今も生きておられるのです。
 ミサの中で何度も繰り返されるやりとりがあります。「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」。今年の待降節から「またあなたとともに」に変わりますが、どちらにせよ、日本語として自然なやりとりでないのは確かです。これは特別な対話なのです。復活された主が今わたしたちの中におられる、そのことを確認し合う、特別な、大切な対話です。「不自然だ」と思うより、「特別なのだ」と感じたいと思います。

 トマスはイエスの復活を疑ったと言われます。他の弟子たちもイエスを見るまで信じませんでした。わたしたちの中にも疑いがあります。本当にイエスは今も生きていると言えるのか、どう考えてもそうは思えないような現実があります。
 11年前の大地震を経験したこの地域が、3月16日の福島県沖地震で、また大きな被害を受けました。度重なる被害に打ちひしがれているような方もおられます。新型コロナのパンデミックも終息の見込みがいまだに立っていません。そしてウクライナでは悲惨な戦争が続いています。わたしたちが当然だと信じてきた国際社会の秩序は破壊されてしまっています。それでもキリストは今も生きている、と言えるのでしょうか・・・

 キリスト教とは、二千年前のイエスと言う方が立派な教えを残された、だからその教えを守って生きていきましょう、という宗教ではありません。あのイエスは救い主であり、あの方は今も生きている。だから彼の方の言葉と生き方のすべては単なる教訓や道徳ではなく、今もわたしたちを支え導く、生きた言葉であり、あの方は生きた存在なのだと信じて、そのイエスとともに生きることです。
 「イエスは今も生きている」それは結論ではなく出発点です。そこからわたしたちは出かけていきます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」今日の福音でイエスがおっしゃるように、わたしたちも生きておられるイエスによって派遣されていくのです。ミサの最後に「行きましょう。主の平和のうちに」という言葉がありますが、いつも今日の福音の場面を思い出しながら、イエスがわたしたちを今日、派遣してくださると感じていたいと思います。
 
 キリストからゆるしを託されて、
 キリストから愛を託されて、
 キリストからいのちを託されて、
 キリストから平和を託されて、わたしたちは今日もここから派遣されていきます。

復活の主日



復活祭おめでとうございます。HAPPY EASTER !

復活祭のミサは2つあります。復活徹夜祭のミサと日中のミサです。密になるのを避けるため、信徒の皆さんには、どちらか1回だけに参加するようお願いしました。そこで説教の内容を同じにしてあります。そしてミサの朗読配分の規則に基づき、日中のミサでも徹夜祭の福音の箇所を読むことにしました。

●復活の主日(復活徹夜祭・日中のミサ共通)
 福音の箇所:ルカ24・1-12
             2022.4.17カトリック原町教会にて
 ホミリア
 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」
 ルカ福音書のイエスの墓の場面で、天使が女性の弟子たちに言う言葉です。
 「あの方は生きておられる」これこそがイエスの復活を表す最も単純な言葉です。復活の主日にはいつも空の墓の場面が読まれますが、墓の中を探してもイエスは見つかりません。あの方は生きておられるからです!
 キリストは生きておられる、この復活の神秘を今日改めて味わいたいと思います。復活とは2000年前に起こった出来事というよりも、イエスは今も生きていてわたしたちと共にいてくださり、日々、わたしたちを支え、導いてくださる、ということを意味しています。復活は過去の出来事ではなく、現在の出来事なのです。
 
 復活とは「絆の完成」だと言うこともできます。
 徹底的に父である神に信頼して歩んだイエスの歩みは、十字架の死で終わってしまったのではなく、死をとおって、神のもとに行く歩みでした。イエスは受難と復活をとおって天に挙げられ、神とともに永遠のいのちを生きる方となられました。その意味で、復活とはイエスと父なる神との絆の完成だと言えます。そして、地上に生きていたイエスは特定の時代の、特定の人としか出会うことはできませんでしたが、今は、永遠のいのちに入られた方として、あらゆる時代のあらゆる場所の人が出会うことができ、あらゆる人と共にいる方となりました。その意味で、復活はイエスと人々との絆の完成だとも言えます。

 このイエス、生きておられるイエスにわたしたちはどうやって出会うことができるでしょうか。どうしたら生きておられるイエスが共にいてくださると感じることができるでしょうか。3つのことを大切にしたいと思います。
 まず一つ目は「聖書」です。
 今日のルカ福音書の場面で、天使は言います。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」それを聞いて女性たちは「イエスの言葉を思い出した」とあります。イエスの言葉、イエスの約束は決して虚しいものではなく、本当に確かなものだったと気づくのです。わたしたちも聖書を読んで、神の言葉、イエスの言葉を思い出します。そしてそれが今のわたしたちの現実の中に生きていると気づいた時、今もイエスは生きておられると感じることができるはずです。
 「あなたの罪は許された」「わたしが来たのは罪人を招くためである」「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」「恐れることはない」「貧しいあなた方は幸い」「あなたがたは地の塩、世の光である」「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」
 これらすべての言葉は過ぎ去った時代の言葉ではなく、今のわたしたちの中に響いている言葉でもあるのです。

 二つ目は「祈り」。
 日中のミサの第二朗読で読まれるコロサイの手紙の箇所にこうあります。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイ3・1-2)。祈りとは、心を神に向けること、生きておられるイエスに心を向けることです。「地上のもの」で頭がいっぱいになっているのが、わたしたちの日常かもしれません。その中で、いっ時でもそこから離れて心を神に向けるのです。毎日の生活の中で、一人でする祈りもあれば、こうして教会に集まって皆で一緒に祈ることもあります。必死で願い事をすることもありますが、祈りの中で神とのつながりを思い起こし、確認し、イエスと共に神に感謝と賛美をささげるのです。祈りの中で生きておられるイエスを感じるということもとても大切なことです。

 三つ目は「人との交わり」です。
 ギリシア語でコイノニアkoinonia、ラテン語でコムニオcommunioと言います。
 キリストを信じる者同士の交わりは大切です。特にこの日本のようにキリスト者が少ない社会では、信じる者同士が「キリストは生きているよね」と言い合い、確かめ合う、励まし合うことは絶対に必要なことだと思います。でも人との交わりはそれだけではありません。わたしたちはいろいろな人に出会います。ほとんどが信者でない人たちです。その人々の中にある素晴らしいものに出会ったとき、そしてまた、小さな子どもの中にあるいのちの輝きに出会ったとき、その中に「キリストが生きている」と感じることがあるでしょう。あるいは、貧しかったり、病気だったり、苦しみを抱えている人と出会うとき、その人たちの中に、受難のキリストが生きていると感じることもあります。そういうキリストとの出会いも本当に大切です。

 「聖書」と「祈り」と「人との交わり」。その中で本当に、キリストは今も生きておられる、と感じることができますように。そしてそのキリストに日々励まされながら、キリストと共に、信仰・希望・愛に生きることができますように、心を込めて祈りましょう。

受難の主日(枝の主日)



いつの間にか、もう聖週間!

●受難の主日(枝の主日)
 聖書箇所:ルカ19・28-40/イザヤ50・4-7/フィリピ2・6-11/ルカ23・1-49
             2022.4.10カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今年、悲惨な戦争が行われている中で、聖週間・受難の主日を迎えました。
 フランシスコ教皇の回勅『Fratelli Tutti』261の言葉を思い起こしたい。
 「どの戦争も必ず、世界を、かつての姿よりもいっそう劣化させます。戦争は、政治の失敗、人間性の失敗であり、悪しき力に対する恥ずべき降伏、敗北なのです。理屈をこねるのはやめて、傷に触れ、犠牲者のからだに触れようではありませんか。『巻き添え被害』で殺戮された無数の民間人を、しっかり見つめようではありませんか。犠牲者に尋ねようではありませんか。避難民、被爆者や化学兵器の被害者、わが子を亡くした母、手足を失った子や幼少期を奪われた子どもたちに、目を向けようではありませんか。こうした暴力の犠牲者が伝える真実に意識を向け、彼らの目を通して現実を見つめ、開かれた心で彼らの話に耳を傾けようではありませんか。そうすれば、戦争の根底にある悪の深さに気づけるようになり、平和を選ぶことでナイーブだと見なされても悩むことはないのです。」

 本当に今、苦しんでいる人、殺されていっている人々のことを思い、嘆きと叫びを神にぶつけたいと思います。そして、神に問いかけます。「わたしたちはどうしたらこの暴力を止めることができるのでしょうか?」世界中の多くの人がその答えを探していますが、誰も見つけることができずにいるのだと思います。

 わたしたちは今日、十字架のイエスを見つめます。そして、この十字架のイエスの中に、本当の意味で暴力に打ち勝つ道がある。暴力が暴力を生む「暴力の連鎖」を断ち切る道がある。わたしたちはそう信じたいのです。
 今日読まれたルカ福音書の受難物語は、マルコの受難物語を基にしながら、特徴的ないくつかのエピソードを伝えています。それは、受難のイエスが最後の最後まですべての人に対する共感の心を持ち続け、父なる神に対する信頼を持ち続けた姿を伝えるものです。
 十字架を担いで歩いていく中、嘆き悲しむ女性たちにこうおっしゃいました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」続く言葉はちょっと分かりにくいのですが、イエスの言葉は、この女性たちがこの先味わうことになるもっと大きな苦しみを予告し、彼女たちを慰める言葉でした。十字架に釘付けられたときは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われました。自分を十字架につけた人々のために、神のゆるしを願ったのです。そして一緒に十字架につけられていた一人の犯罪人に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されました。イエスの心は最後の最後まで出会った一人一人の人間に対する思いやりに満ちていました。
 そしてイエスは最後の最後まで神に信頼し、祈ることをやめませんでした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」も祈りの言葉です。最後の言葉も祈りの言葉でした。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」父である神に信頼し、自分のすべてを委ねて息を引き取りました。
 表面的に見れば、イエスは暴力の被害者であり、犠牲者です。まったく無力でただ苦しみ殺されていく姿は、人々から見捨てられ、神からも見放されたようにしか見えなかったでしょう。しかし、そのイエスは最後の最後まで神に対する信頼を貫き、人に対する愛と共感とゆるしを貫いた、ルカはそのイエスの姿をはっきりと伝えてくれています。

 そのイエスは十字架によって、暴力と罪と死に打ち勝った、これがわたしたちの信仰=復活の信仰です。そして、あのイエスを死の暗闇に見捨てなかった父なる神は、わたしたちをも決して見捨てない。わたしたちがこの悲惨な現実の中で、信頼と愛の灯を掲げて歩むとき、そこに必ず希望は生まれてくる。戦争や暴力の闇がどんなに大きくとも、イエスが灯した希望の灯は決して消えてなくなることはない。わたしたちはそう信じるのです。
 しかし、現実のこの世界の中で、このわたしたちに何ができるのか、何をすべきなのか、とても難しいです。それでも、だからこそ立ち止まって、イエスの十字架を見つめ、そこからいつも新たに歩み始めましょう。

 すべてのいのちをお造りになり、すべてのいのちを生かし、すべてのいのちを愛してくださる神に信頼をもって祈りましょう。
 そして、同じ唯一の神の子どもとして、わたしたちがすべての人を大切にし、すべての人と互いに尊重し合える世界をつくっていくことができますように。心から祈りましょう。

四旬節第5主日



南相馬市原町区東ヶ丘公園の水芭蕉が咲き始めました。
桜はまだまだです。ちょうど聖週間が見頃でしょうか?

●四旬節第5主日
 聖書箇所:イザヤ43・16-21/フィリピ3・8-14/ヨハネネ8・1-11
             2022.4.3カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今日の第二朗読は使徒パウロのフィリピの教会への手紙でした。今日は、このパウロの話から始めたいと思います。
 パウロは、元の名をサウロと言い、キリキア州のタルソ(今のトルコ南部)で生まれたユダヤ人でした。若い頃、エルサレムに行き、有名なラビ・ガマリエルの下で律法を学んだ人で、ファリサイ派の一員でした。神に忠実に生きようとして、そのために神の掟である律法を忠実に守ろうとしていたのです。彼が求めていたのは、本当の意味で神につながって生きること、そして人とつながって生きることだったはずです。そのために、律法という道に従って歩むべきだと考えていたのだと思います。

 サウロが聖書(使徒言行録)に最初に登場するのは、キリスト教最初の殉教者ステファノの殉教の場面です。
 「7・54人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。55ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、56『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。57人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、58都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。・・・・8・1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。」

 ファリサイ派のサウロからすれば、律法を軽んじて、イエスを信じれば救われる、というようなキリスト信者の考えは許されないものでした。彼はキリスト者を迫害するためにダマスコに向かっていましたが、その途中、復活のイエスに出会います。有名な箇所です。
「9・1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。3ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。5『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』」

 サウロは声の主が誰か、最初は分かりませんでした。声は「なぜわたしを迫害するのか」というのですが、サウロはイエスの弟子たちをたくさん迫害していたのです。ところが、その声は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言いました。サウロはキリスト者を迫害していたつもりでしたが、イエスの方は「あなたはわたしを迫害している」と言うのです。それはサウロが迫害していたキリスト信者の中に、復活したイエスご自身がおられたということでしょう。そのことを特別に感じさせるのがステファノの殉教の姿です。

 「7・59人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。60それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」
 自分を迫害する人のために神のゆるしを願い、そして神・イエスに対して最後まで絶対的な信頼を持ち続ける。それは十字架のイエスの態度そのものでした。
 ルカ福音書によれば、イエスは十字架につけられた時、こう言われました。
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
 そして十字架のイエスの最後の言葉はこうでした。
 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
 ステファノの殉教の姿は、まさにイエスの十字架の姿の生き写しでした。
 だとすれば、ステファノの殉教に立ち会うことによって、サウロはもうすでに復活のイエスに出会っていたのだ、とも言えるのでしょう。
 
 サウロは、本当の意味での神とのつながりを求め、人とのつながりを求めていました。そのために熱心にファリサイ派として生きていました。しかし、サウロが求めていたものは、ファリサイ派の生き方の中にではなく、キリスト教殉教者であるステファノの中にあったのです。徹底した隣人への愛と神・イエスへの信頼。それによってこそ、神と人とに本当につながることができる。それはナザレのイエスからイエスの弟子たちへと受け継がれた生き方でした!だからパウロは今日の箇所でこう言うのです。
 「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
 本当の意味で、神への信頼、そしてすべての人への愛を持って生きること、それがサウロの見出したイエスの生き方であり、イエスの弟子の生き方でした。

 今日の福音は有名な「姦通の女」の話です。いろいろな読み方があるかもしれません。しかしとにかくイエスはこの女性を助けました。律法によれば、石打ちで死刑になるはずのこの人を助けたのです。イエスにとって、どんな律法よりも、目の前のこの人のいのちが大切だったからです。律法の規定ではなく、目の前にいる、神の子である人間のいのちと尊厳を守る、これがイエスの生き方でした。

 今、わたしたちは非常に厳しい現実を突きつけられています。
 人間のいのちよりも、人間としての尊厳よりも、人権よりも優先される価値があるのだ、という考えがこの世界には根強くあるのです。その価値は「国」というものであったり、「民族の誇り」であったり、「支配体制」であったり、ある場合には特定の「宗教」であったりします。そしてそれらはウクライナだけでなく、世界の至る所で、暴力的な力をもって人間の尊厳を踏み躙り、人のいのちを抹殺しているのです。
 目の前の、この一人の人間を生かそうとするイエスの愛を、イエスのゆるしを本当にしっかりと受け止め、しっかりと見つめて歩むことができますように。アーメン。